5th
友人との常識の話を夫に言った。
「アメリカ人って、すれ違うときぶつかりそうになる、あるいは人とちょっと肌が触れ合っただけでも “Excuse me!”とか”I’m sorry.” ってすぐ謝るのに、自分が間違っていても、交通事故で自分のほうが悪くても、たとえ人を殺しても謝らない国民なのよね。故意でなくても間違っている、ある いは悪い事をしたら謝罪するって常識だと思うけど、あなたはどう思う? 私、この国では何を謝って何を謝らないほうがいいのか分からない。何が常識で、何 が常識でないって子どもたちに教えたらいいの。本当に困ってしまう……」
「さっきから常識、常識って言っているけど、僕には何の事だかさっぱりわからないよ」
「常識って日本語も知らないの?英語で、『コモンセンス』って言うでしょ。日本でも、コモンセンスって、もう誰でも知っている『常識語』よ。常識ないわねぇ」
と言うと、夫は、
「英語のコモンセンスって、そんな意味ではないけどなあ……。常識ねぇ」
と首をかしげる。
「コモンセンスという言葉は、例えば、火のついたストーブの上には手を置かないとか、割れたガラスの上を裸足 で歩かない、車が来ているときには道路に飛びださないというような身の危険を察知した判断ができるかどうかに使われると思う。コモン(common)つま り普通の、共通の、センス(sense)感覚、判断力という意味だよ。これって日本人のいう常識と違うような気がするけど……」
私曰く、
「それも常識だけど、もっと危険なことという意味でしょう。誰も好んでそんなことをしないのは当たり 前じゃないの。それじゃ、犬の散歩をしているとき、飼い犬がした糞の始末をしていかないのは何?タバコの吸殻や飲物の空き缶をポイ捨てする、そんなことを する人は常識がないってことじゃないの」
「それはコモンセンスとは違うよ。そのようなことはコモン・コーテスィー(courtesy 言動が礼儀正しい)っていうんだよ」
「え? コモン・コーテスィー?」
「お隣のケヴンやリサたちのように、境がわかっているのに我が家の敷地内に木を植えたりするのはどう? 落ち葉をブロアー(強風で落ち葉や庭のごみを集める機械)我家の方に吹き飛ばしてしまうのはどう? 非・常識でしょ」
「それも、コーテスィだなあ」
何だか常識・コモンセンスという言葉の意味が、私が思っていたのとは違う気がする。 誰にでも「危険だ」とわかることをしないというのが、コモンセンス。しかし、このコモンセンスには、「自分で危険な状況を作り出さない」と言う意味も含ま れている。例えば、人に向かって、大声でその人の悪口を言う。また銃やナイフを手に持って、誰かの家の呼び鈴を押すと家主はどうするだろう。このように、 危険な状況を自分で作りださないという「常識」にも、「コモンセンス」を使う。そして、日常生活の中でおきる問題や、揉めごと、つまり、それが原因で他人 が嫌な気分にならないようにする「常識」を、「コモン・コーテスィー」といい、言葉を区別して使う。
しかし、コモン・コーテスィーだと判断されるようなこと。落ち葉や庭のごみをいつも隣の庭に吹き飛ばしてく る隣人に、堪忍袋の緒が切れたご主人が、怒って拳銃で撃ち殺すようなことだってこのアメリカにはありうる。この場合は、何気ない行動が明らかに危険を作り 出している。このような状況は、コモン・コーテスィーとコモンセンスが区別できず、入り混じっているのではないだろうか。複雑だ!
日本人が「こんなの常識じゃない?」というのは、コモン・コーテスィーの範疇に入ることが多いようだ。
「それ、エチケットともいうよ」
息子が付け加える。もう日本語になってしまった「コモンセンス」。アメリカで使うときには、気をつけたほうが良いようだ。
夫曰く、
「でも、最近アメリカでは、コモン・コーテスィーっていう言葉、ほとんど聞かなくなったなあ……」
「アメリカ人って、他人が何をしようと気にしない人も多いでしょう。他の人のこともあまり構わないから、人間関係の中で必要な常識って、なくてもよくなってきたんじゃないの」と私。
「あ、わかったぞ。そういった人間関係の揉めごとになるようなことは、法律で決めてしまうのが、現代アメリカ の傾向かもしれない。今アメリカは、多人種、多民族、多宗教が益々混在してきている。コモン・コーテスィーの考え方も人それぞれ違っている。基本的に他人 が嫌な思いをするようなことは、刑法によって犯罪にせざるを得ないのではだろうか」と夫。
librahack 氏は本心から「自分の行為が迷惑をかけてしまった」と思っているのかもしれない。それは本当だろう。もしかしたら本当に「警察による逮捕には不満はない」と思っているのかもしれない。
皆さんは survivor’s guilt という言葉をご存知だろうか。戦争や災害などで生存した人が持つ、自分が生き残って申し訳ないという気持ちに苦しめられる症状だ。
今回の事件で librahack 氏が抱いた感情は、survivor’s guilt とは違う。しかし心機は似ている。
日本は伝統的に反クレーム社会だ。徳川時代に端を発すると言っていいだろう。武家諸法度、禁中並公家諸法度やそのほかの法律を通して民衆や寺社を縛りに縛って、フィジカルのみならず思想でも縛って、外的のみならず人の内面から服従するように法を整備した。がちがちに外的抑制を施したから、人々も生存保障のため、内面から自己規制したほうが精神の安定に寄与する。そうやって過剰なまでの反クレーム社会が形成された。
文句を言わないのが美徳であった時代が長かった。太平洋戦争が終わって半世紀以上も経つのに、その余熱を引きずっている。
librahack 氏は今回の誤認逮捕事件で、自分に過剰なまでの注目が集まった。そのことは世人の想像を超えるプレッシャーに違いない。
人は過剰な心理的負荷を解消するために何かの行動や思想をとり易くなる。猫は飼い主の愛情を独り占めしていたのに、別の猫が家に来て可愛がられたら、ある行動をとる。自分の毛を口で掻き毟るのだ。これを代償行動という。
librahack 氏は、「自分の行動に問題があった、申し訳ない、警察は悪くない」と思い込む。このことで自分の心理的負荷が多少解消されるのだ。機制はこうだ。
無罪放免された今、自分が「警察の誤認逮捕だ、断固抗議する!」と騒ぎ立てれば、反クレーム社会の日本人の多くを敵に回すことになるだろう。ここはおとなしく、自分の非で、警察に非はありません、申し訳ございませんでした、と言おう。
そうすることで、日本人の美意識に訴えることになる。問題が何もなかったことにするのが日本人の美意識なのだ。外国人が口げんかする場面でも、日本人はぐっと我慢するのが美徳なのだ。
librahack 氏の「逮捕に不満はない」発言は、日本人の美徳とされてきた規範に沿うコメントを発することで、一種の精神安定剤として寄与しているのだ。
この記事を書いている著者は、いじめを受けた経験がある。いじめを受けていた時、一度も親にも誰にも相談しなかった。多くのときは、自分が悪いとばかり思い込んでいた。
いじめを受けている子の何パーセントかは、確実に、「自分が悪い」と思い込む症候群に陥っていると、私は強く確信する。本当にいじめられるその子だけが悪いのだろうか?調子に乗ってエスカレートして止めない苛めっ子、そういうのを駄目といえる教育をしない大人の責任はないのだろうか?
反クレーム社会に加えて日本人社会は見て見ぬふり社会でもある。もちろんそうでない日本人もたくさんいる。しかし全体から見れば少数派であろう。これは論から逸れるので深入りはしない。
しかし私が誤認逮捕事件から強く憤ったことを、何も発表しないでおくのは、見て見ぬふり社会の一員であることを認めたことになる。だから記事にするのは義務なのだ。
librahack 氏は猫が自分の毛を口で掻きむしるかのごとく、日本人の伝統的美徳を頼り、「私が悪い、警察は悪くない」発言をしてしまった。そのことで彼を責めるのは酷だろう。
しかしこの事件から教訓が得られる。つらいが決してそのようであってはならないのだ。
記事のトップにリンクした杉谷さんのサイトを読んでいただきたい。本当に librahack 氏が逮捕されたのは仕方のないことなのだろうか。
杉谷さんのサイトを読む限り、警察や三菱インフォメーションシステムズの責任である。愛知県警察関係者からは、誤認逮捕をしたという認識すらないし、申し訳なさそうにする気配も感じられない。
librahack さんが、「警察の逮捕は仕方ない」と発言したことで、言質をとられることになる。後に警察が責任を追及されても、「だって、当人が我々の責任ではないと言ってるんだから」ということで、責任を回避されるのだ。
責任を負うべき人の責任問題はなしにされ、再発防止へのドライブも鈍いものとなる。
結果的に、librahack さんの発言は、本当に社会のためにならないものなのである。そのことで彼を責めてはいけないが、彼のように心理的に傷を負った人でない我々へ大事な教訓を残してくれたのが今回の一件である。