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Notes

librahack 氏は本心から「自分の行為が迷惑をかけてしまった」と思っているのかもしれない。それは本当だろう。もしかしたら本当に「警察による逮捕には不満はない」と思っているのかもしれない。

皆さんは survivor’s guilt という言葉をご存知だろうか。戦争や災害などで生存した人が持つ、自分が生き残って申し訳ないという気持ちに苦しめられる症状だ。

今回の事件で librahack 氏が抱いた感情は、survivor’s guilt とは違う。しかし心機は似ている。

日本は伝統的に反クレーム社会だ。徳川時代に端を発すると言っていいだろう。武家諸法度、禁中並公家諸法度やそのほかの法律を通して民衆や寺社を縛りに縛って、フィジカルのみならず思想でも縛って、外的のみならず人の内面から服従するように法を整備した。がちがちに外的抑制を施したから、人々も生存保障のため、内面から自己規制したほうが精神の安定に寄与する。そうやって過剰なまでの反クレーム社会が形成された。

文句を言わないのが美徳であった時代が長かった。太平洋戦争が終わって半世紀以上も経つのに、その余熱を引きずっている。

librahack 氏は今回の誤認逮捕事件で、自分に過剰なまでの注目が集まった。そのことは世人の想像を超えるプレッシャーに違いない。

人は過剰な心理的負荷を解消するために何かの行動や思想をとり易くなる。猫は飼い主の愛情を独り占めしていたのに、別の猫が家に来て可愛がられたら、ある行動をとる。自分の毛を口で掻き毟るのだ。これを代償行動という。

librahack 氏は、「自分の行動に問題があった、申し訳ない、警察は悪くない」と思い込む。このことで自分の心理的負荷が多少解消されるのだ。機制はこうだ。

無罪放免された今、自分が「警察の誤認逮捕だ、断固抗議する!」と騒ぎ立てれば、反クレーム社会の日本人の多くを敵に回すことになるだろう。ここはおとなしく、自分の非で、警察に非はありません、申し訳ございませんでした、と言おう。

そうすることで、日本人の美意識に訴えることになる。問題が何もなかったことにするのが日本人の美意識なのだ。外国人が口げんかする場面でも、日本人はぐっと我慢するのが美徳なのだ。

librahack 氏の「逮捕に不満はない」発言は、日本人の美徳とされてきた規範に沿うコメントを発することで、一種の精神安定剤として寄与しているのだ。

この記事を書いている著者は、いじめを受けた経験がある。いじめを受けていた時、一度も親にも誰にも相談しなかった。多くのときは、自分が悪いとばかり思い込んでいた。

いじめを受けている子の何パーセントかは、確実に、「自分が悪い」と思い込む症候群に陥っていると、私は強く確信する。本当にいじめられるその子だけが悪いのだろうか?調子に乗ってエスカレートして止めない苛めっ子、そういうのを駄目といえる教育をしない大人の責任はないのだろうか?

反クレーム社会に加えて日本人社会は見て見ぬふり社会でもある。もちろんそうでない日本人もたくさんいる。しかし全体から見れば少数派であろう。これは論から逸れるので深入りはしない。

しかし私が誤認逮捕事件から強く憤ったことを、何も発表しないでおくのは、見て見ぬふり社会の一員であることを認めたことになる。だから記事にするのは義務なのだ。

librahack 氏は猫が自分の毛を口で掻きむしるかのごとく、日本人の伝統的美徳を頼り、「私が悪い、警察は悪くない」発言をしてしまった。そのことで彼を責めるのは酷だろう。

しかしこの事件から教訓が得られる。つらいが決してそのようであってはならないのだ。

記事のトップにリンクした杉谷さんのサイトを読んでいただきたい。本当に librahack 氏が逮捕されたのは仕方のないことなのだろうか。

杉谷さんのサイトを読む限り、警察や三菱インフォメーションシステムズの責任である。愛知県警察関係者からは、誤認逮捕をしたという認識すらないし、申し訳なさそうにする気配も感じられない。

librahack さんが、「警察の逮捕は仕方ない」と発言したことで、言質をとられることになる。後に警察が責任を追及されても、「だって、当人が我々の責任ではないと言ってるんだから」ということで、責任を回避されるのだ。

責任を負うべき人の責任問題はなしにされ、再発防止へのドライブも鈍いものとなる。

結果的に、librahack さんの発言は、本当に社会のためにならないものなのである。そのことで彼を責めてはいけないが、彼のように心理的に傷を負った人でない我々へ大事な教訓を残してくれたのが今回の一件である。

librahack 氏は、警察に責任なし発言をするべきでなかった | 日本レファレンス批評家協会 会報