友人との常識の話を夫に言った。
「アメリカ人って、すれ違うときぶつかりそうになる、あるいは人とちょっと肌が触れ合っただけでも “Excuse me!”とか”I’m sorry.” ってすぐ謝るのに、自分が間違っていても、交通事故で自分のほうが悪くても、たとえ人を殺しても謝らない国民なのよね。故意でなくても間違っている、ある いは悪い事をしたら謝罪するって常識だと思うけど、あなたはどう思う? 私、この国では何を謝って何を謝らないほうがいいのか分からない。何が常識で、何 が常識でないって子どもたちに教えたらいいの。本当に困ってしまう……」
「さっきから常識、常識って言っているけど、僕には何の事だかさっぱりわからないよ」
「常識って日本語も知らないの?英語で、『コモンセンス』って言うでしょ。日本でも、コモンセンスって、もう誰でも知っている『常識語』よ。常識ないわねぇ」
と言うと、夫は、
「英語のコモンセンスって、そんな意味ではないけどなあ……。常識ねぇ」
と首をかしげる。
「コモンセンスという言葉は、例えば、火のついたストーブの上には手を置かないとか、割れたガラスの上を裸足 で歩かない、車が来ているときには道路に飛びださないというような身の危険を察知した判断ができるかどうかに使われると思う。コモン(common)つま り普通の、共通の、センス(sense)感覚、判断力という意味だよ。これって日本人のいう常識と違うような気がするけど……」
私曰く、
「それも常識だけど、もっと危険なことという意味でしょう。誰も好んでそんなことをしないのは当たり 前じゃないの。それじゃ、犬の散歩をしているとき、飼い犬がした糞の始末をしていかないのは何?タバコの吸殻や飲物の空き缶をポイ捨てする、そんなことを する人は常識がないってことじゃないの」
「それはコモンセンスとは違うよ。そのようなことはコモン・コーテスィー(courtesy 言動が礼儀正しい)っていうんだよ」
「え? コモン・コーテスィー?」
「お隣のケヴンやリサたちのように、境がわかっているのに我が家の敷地内に木を植えたりするのはどう? 落ち葉をブロアー(強風で落ち葉や庭のごみを集める機械)我家の方に吹き飛ばしてしまうのはどう? 非・常識でしょ」
「それも、コーテスィだなあ」
何だか常識・コモンセンスという言葉の意味が、私が思っていたのとは違う気がする。 誰にでも「危険だ」とわかることをしないというのが、コモンセンス。しかし、このコモンセンスには、「自分で危険な状況を作り出さない」と言う意味も含ま れている。例えば、人に向かって、大声でその人の悪口を言う。また銃やナイフを手に持って、誰かの家の呼び鈴を押すと家主はどうするだろう。このように、 危険な状況を自分で作りださないという「常識」にも、「コモンセンス」を使う。そして、日常生活の中でおきる問題や、揉めごと、つまり、それが原因で他人 が嫌な気分にならないようにする「常識」を、「コモン・コーテスィー」といい、言葉を区別して使う。
しかし、コモン・コーテスィーだと判断されるようなこと。落ち葉や庭のごみをいつも隣の庭に吹き飛ばしてく る隣人に、堪忍袋の緒が切れたご主人が、怒って拳銃で撃ち殺すようなことだってこのアメリカにはありうる。この場合は、何気ない行動が明らかに危険を作り 出している。このような状況は、コモン・コーテスィーとコモンセンスが区別できず、入り混じっているのではないだろうか。複雑だ!
日本人が「こんなの常識じゃない?」というのは、コモン・コーテスィーの範疇に入ることが多いようだ。
「それ、エチケットともいうよ」
息子が付け加える。もう日本語になってしまった「コモンセンス」。アメリカで使うときには、気をつけたほうが良いようだ。
夫曰く、
「でも、最近アメリカでは、コモン・コーテスィーっていう言葉、ほとんど聞かなくなったなあ……」
「アメリカ人って、他人が何をしようと気にしない人も多いでしょう。他の人のこともあまり構わないから、人間関係の中で必要な常識って、なくてもよくなってきたんじゃないの」と私。
「あ、わかったぞ。そういった人間関係の揉めごとになるようなことは、法律で決めてしまうのが、現代アメリカ の傾向かもしれない。今アメリカは、多人種、多民族、多宗教が益々混在してきている。コモン・コーテスィーの考え方も人それぞれ違っている。基本的に他人 が嫌な思いをするようなことは、刑法によって犯罪にせざるを得ないのではだろうか」と夫。
(via hexe)